2014年 04月 05日
フーコー、ストラッサー、メンヘラ |
かなり長い間このブログを放置していた。最近は色々と考えさせられる事が多く、人間関係での悩みも大きい。特に心惹かれるのは、メンヘラという存在についてだ。
メンヘラとは何だろうか。彼、彼女たちはいったい何なのだろうか?かのように愛に飢えた人々の表面化はネット時代になり、加速したように思われる。とくに2ちゃんねるやTwitter等の個人情報が知られにくい場所において、特に女性が自らの裸を晒し、女神となりちやほやされる。虚構の愛、体への愛、それでもいいから求め続ける彼、彼女たちはいったい何だろうか。ここで一つの疑問となるのが、現代以前にもメンヘラは存在したのかということになる。これについては資料が少なすぎるが、おそらくは一定数必ず存在していた。しかしながら、社会の情報化、流動化がこれほどまでに高度化していなかったため、特に問題視されてなかったのかもしれない。孤立が人間に対して行使する圧倒的なあの力はおそらく古代から知られており、だからこそ隠者はある種の尊敬を勝ち得たのだろう。つまり、ポリスや都市、農村の外に一人で生活するというのは恐るべき所業であり、恐るべき試練であった。禁欲を歌うキリスト者の修道者でさえある程度の集団生活を営み、真の隠者へと昇華したものは更なる尊敬を得た。では、孤独のみがメンヘラの原因なのだろうか。
私の考えはそれとは違う。彼、彼女たちの根底にあるのは「与えられるべきものが私には与えられていない」という強烈な権利意識だと感じる。そして、それを手に入れることこそが「普通」であり、その「普通」へと昇華できない自分は社会で不利な地位にいる、もしくは最初からハンディを抱えていたと。そして孤独感が拍車をかけ、どのような種類の交流でさえもそれを求める。この考えが正しいかどうかは別として、もしこの考えによって立つならば、表題のふたりが考察にあたって外せなくなる。
ストラッサーとフーコーはストラッサーがフーコーの延長にいるということはある程度の人に同意してもらえるのではないかと考えている。ストラッサーのSatisfaction Guaranteedは名著であり、現代社会のマーケティングの一側面を描き出した。ストラッサーはその著書において批判は多いものの、まさにマーケティングによって社会を作り替え、市場を作り出すという社会史を描き出した。では、現代ではどうなのか?現代社会は高度にレール化された社会だと錯覚しているひとが時たまいる。というよりも、日本社会そのものがそのような道を、そして正解を定めているかのような教育を行っている。ストラッサーのあの描き出した世界が、まさに国家規模で、教育として行われている。
現代日本の教育の問題を一言で表すならばSuccess Guaranteedとならないだろうか。成功を約束された社会、少なくともそう教えていることが問題を加速させていると考えている。つまり、成功などどこにも約束されてはいないし、あるべきとされているレールなどどこにもありはしない。実際の日本社会というのは、もっと混沌としていて、中小企業の労働基準法違反が横行したり、多くの人間が転職や解雇を経験したり、大企業は脱税をしたりするというようなアナーキーな社会なのだ。これらのことを教えないまま、約束された成功、きれいな努力の先にある栄光のみを伝えるからこそ、彼らは正しく間違う。そして傷つき、メンヘラとなる。
正しく間違う、なんという響きだろうか。正しいのに間違えるとはいったいいかなることか。現代の日本の教育、特に高等教育の中にあって、高等教育ではないものが跋扈している現状では、そのような状況も起こり得る。つまり、勉強するのは、答えがないことを理解し、作り出すために勉強するのに、答えを探すために勉強するという皮肉に陥ってしまう。目的なき勉強は受験へと集約され、受験と就職のために勉強するという誤謬がまかり通る。これこそまさに末法の世ではないか。何たる皮肉か、何たる悲劇か、我々の教育は未だに臣民を育てている。そして、その臣民が市民としての義務を考えずに平等意識を持つとき、悲劇は起こる。
満足を、成功を、そして、愛されることを約束してはならない。努力の結果すらも約束してはならない。それらは神のさいころによってきまる。ただし、さいころの数を増やすことは努力によって可能になる。あの気持ちの悪い就活も、受験も、最後にはさいころで決まる。そう、あの恐るべき就活!資本主義の魔の手が就職にまで及んだ。その恐ろしさを考えるべきじゃないだろうか。人間の人生、職選びの方法すら市場ではなく、資本主義によって決定される。リクルートの書いたシナリオが、リクルートの推奨する能力が、謎のコンサルタントの進める方式が、普通になっていく。これほど気持ち悪い社会の変化を目の当たりにすることがあるとは!
話がずれてしまった。元々はメンヘラの話題であった。彼、彼女達はおそらくは現代の、そしてこの社会の産物なのだろう。成功と成長を約束する資本主義が、家族関係と愛と成功にまで入り込み、約束された栄光示す事によって彼・彼女等はできあがるのではないだろうか。
普通におびえる人々、なぜ彼らが居るのかという答えは、私たち自身が持っているのだろう。
メンヘラとは何だろうか。彼、彼女たちはいったい何なのだろうか?かのように愛に飢えた人々の表面化はネット時代になり、加速したように思われる。とくに2ちゃんねるやTwitter等の個人情報が知られにくい場所において、特に女性が自らの裸を晒し、女神となりちやほやされる。虚構の愛、体への愛、それでもいいから求め続ける彼、彼女たちはいったい何だろうか。ここで一つの疑問となるのが、現代以前にもメンヘラは存在したのかということになる。これについては資料が少なすぎるが、おそらくは一定数必ず存在していた。しかしながら、社会の情報化、流動化がこれほどまでに高度化していなかったため、特に問題視されてなかったのかもしれない。孤立が人間に対して行使する圧倒的なあの力はおそらく古代から知られており、だからこそ隠者はある種の尊敬を勝ち得たのだろう。つまり、ポリスや都市、農村の外に一人で生活するというのは恐るべき所業であり、恐るべき試練であった。禁欲を歌うキリスト者の修道者でさえある程度の集団生活を営み、真の隠者へと昇華したものは更なる尊敬を得た。では、孤独のみがメンヘラの原因なのだろうか。
私の考えはそれとは違う。彼、彼女たちの根底にあるのは「与えられるべきものが私には与えられていない」という強烈な権利意識だと感じる。そして、それを手に入れることこそが「普通」であり、その「普通」へと昇華できない自分は社会で不利な地位にいる、もしくは最初からハンディを抱えていたと。そして孤独感が拍車をかけ、どのような種類の交流でさえもそれを求める。この考えが正しいかどうかは別として、もしこの考えによって立つならば、表題のふたりが考察にあたって外せなくなる。
ストラッサーとフーコーはストラッサーがフーコーの延長にいるということはある程度の人に同意してもらえるのではないかと考えている。ストラッサーのSatisfaction Guaranteedは名著であり、現代社会のマーケティングの一側面を描き出した。ストラッサーはその著書において批判は多いものの、まさにマーケティングによって社会を作り替え、市場を作り出すという社会史を描き出した。では、現代ではどうなのか?現代社会は高度にレール化された社会だと錯覚しているひとが時たまいる。というよりも、日本社会そのものがそのような道を、そして正解を定めているかのような教育を行っている。ストラッサーのあの描き出した世界が、まさに国家規模で、教育として行われている。
現代日本の教育の問題を一言で表すならばSuccess Guaranteedとならないだろうか。成功を約束された社会、少なくともそう教えていることが問題を加速させていると考えている。つまり、成功などどこにも約束されてはいないし、あるべきとされているレールなどどこにもありはしない。実際の日本社会というのは、もっと混沌としていて、中小企業の労働基準法違反が横行したり、多くの人間が転職や解雇を経験したり、大企業は脱税をしたりするというようなアナーキーな社会なのだ。これらのことを教えないまま、約束された成功、きれいな努力の先にある栄光のみを伝えるからこそ、彼らは正しく間違う。そして傷つき、メンヘラとなる。
正しく間違う、なんという響きだろうか。正しいのに間違えるとはいったいいかなることか。現代の日本の教育、特に高等教育の中にあって、高等教育ではないものが跋扈している現状では、そのような状況も起こり得る。つまり、勉強するのは、答えがないことを理解し、作り出すために勉強するのに、答えを探すために勉強するという皮肉に陥ってしまう。目的なき勉強は受験へと集約され、受験と就職のために勉強するという誤謬がまかり通る。これこそまさに末法の世ではないか。何たる皮肉か、何たる悲劇か、我々の教育は未だに臣民を育てている。そして、その臣民が市民としての義務を考えずに平等意識を持つとき、悲劇は起こる。
満足を、成功を、そして、愛されることを約束してはならない。努力の結果すらも約束してはならない。それらは神のさいころによってきまる。ただし、さいころの数を増やすことは努力によって可能になる。あの気持ちの悪い就活も、受験も、最後にはさいころで決まる。そう、あの恐るべき就活!資本主義の魔の手が就職にまで及んだ。その恐ろしさを考えるべきじゃないだろうか。人間の人生、職選びの方法すら市場ではなく、資本主義によって決定される。リクルートの書いたシナリオが、リクルートの推奨する能力が、謎のコンサルタントの進める方式が、普通になっていく。これほど気持ち悪い社会の変化を目の当たりにすることがあるとは!
話がずれてしまった。元々はメンヘラの話題であった。彼、彼女達はおそらくは現代の、そしてこの社会の産物なのだろう。成功と成長を約束する資本主義が、家族関係と愛と成功にまで入り込み、約束された栄光示す事によって彼・彼女等はできあがるのではないだろうか。
普通におびえる人々、なぜ彼らが居るのかという答えは、私たち自身が持っているのだろう。
by Foch_WS
| 2014-04-05 21:34
| 駄文