2011年 06月 09日
秋富創「第一次世界大戦期における連合国・帝国会議とイギリスの通商政策構想」 |
秋富創「第一次世界大戦期における連合国・帝国会議とイギリスの通商政策構想 ―1916年連合国経済会議と1917年戦時帝国閣議・会議―」『社会経済史学 69-1』2003年5月
うちのボスから進められて読み進めている秋富創先生のシリーズである。
秋富氏は本論文においてシティ=帝国膨張派と商工会議所=帝国関税同盟ではなく、第三の道による戦後計画というものが存在したのかという点を中心に検討している。もちろん、1920年代から1930年代にかけて帝国関税同盟派が勝利をおさめはじめ、オタワ会議で帝国関税同盟に決着することになる。しかし、それ以外の第三の道が大戦中に構想されていたとしたら…?もしくは本当に第三の道があったのかという点が中心である。
これが連合国経済協定ECAの始まりであると秋富は書く。連合国経済協定はフランスの提案によって、そしてフランスの恐怖によって考え出されたモノだった。このとき1915年であったが、すでにフランスは戦後経済体制というものを本気で考え始めていた。ただし、連合国経済ブロック構想はフランスのモノだったが英国の利害、つまり帝国関税同盟にせよ、帝国の拡大路線にせよどちらとも対立することになる。ここで帝国関税派と帝国膨張派の綱引きが始まるのである。
まず、フランスにたいし連合国経済ブロックの構築はやんわりと拒否することを伝えるなぜならば、
ということである。さらに英国にとっては連合国内貿易よりも、対中立国向け貿易額の方が総額でも大きく、また長年培ってきた経済関係、通商条約を破棄することは容認できなかったのである。
結局のところ英国の政策は対中立国向けと、連合国向けどちらも平等に扱うと言うことで落ち着きを見せるのである。実際は、英国にとって最も重要であったのはやはり非公式帝国も含めた広域経済圏であって、それは連合国ではないということだった。これは今のEUの状態にそっくりだとも言えなくも無い。むしろ、源流はやはりこのあたりにあるのだろう。
さらに1917年の戦時帝国閣議・会議の段階になると、戦争は長期化の様相を見せ、戦後にドイツ物品が市場を席巻するという恐怖は薄れてきた。逆にドイツの戦後復興と、連合国に行われる賠償を速やかに回収することを思えばドイツ経済復興計画を立てるべきだとまでしている。
では、帝国関税問題について戦時帝国閣議・会議の検討内容を見てい。結論から言ってしまうと、これは船舶運賃補助という形での帝国の結びつきの強化であり、関税以外の方法での助成が望ましいとされた。それは農作物輸出国である、米露との関係を損ねないという意味合いもあったし、自治領の方でも様々な思惑が存在した。ただ、一つ言えるのは英国が目指したのは帝国に対して助成を与えながらも、中立国とも差別無く広い通商関係を維持するというモノであったことを忘れてはならない。
秋富氏は
結局のところ、この時点での英国の理想は自由貿易の維持と同時に、ドイツへ依存していた有る特定の分野についての産業育成であった。この産業育成が後の通商政策へつながることは明らかであった。
うちのボスから進められて読み進めている秋富創先生のシリーズである。
秋富氏は本論文においてシティ=帝国膨張派と商工会議所=帝国関税同盟ではなく、第三の道による戦後計画というものが存在したのかという点を中心に検討している。もちろん、1920年代から1930年代にかけて帝国関税同盟派が勝利をおさめはじめ、オタワ会議で帝国関税同盟に決着することになる。しかし、それ以外の第三の道が大戦中に構想されていたとしたら…?もしくは本当に第三の道があったのかという点が中心である。
フランス関税局長ブラネは、在仏イギリス大使館参事官グランヴィルに対して「終戦時連合国が強調して、ドイツによる連合国への大量輸出を防ぐ」ことを私的に提案した
これが連合国経済協定ECAの始まりであると秋富は書く。連合国経済協定はフランスの提案によって、そしてフランスの恐怖によって考え出されたモノだった。このとき1915年であったが、すでにフランスは戦後経済体制というものを本気で考え始めていた。ただし、連合国経済ブロック構想はフランスのモノだったが英国の利害、つまり帝国関税同盟にせよ、帝国の拡大路線にせよどちらとも対立することになる。ここで帝国関税派と帝国膨張派の綱引きが始まるのである。
まず、フランスにたいし連合国経済ブロックの構築はやんわりと拒否することを伝えるなぜならば、
ECAが連合国経済ブロックを形成することで、中立国との通商関係が遮断されるのみならず、中立国と敵国の通商関係が深まるのではないか、という懸念を抱いていた
ということである。さらに英国にとっては連合国内貿易よりも、対中立国向け貿易額の方が総額でも大きく、また長年培ってきた経済関係、通商条約を破棄することは容認できなかったのである。
結局のところ英国の政策は対中立国向けと、連合国向けどちらも平等に扱うと言うことで落ち着きを見せるのである。実際は、英国にとって最も重要であったのはやはり非公式帝国も含めた広域経済圏であって、それは連合国ではないということだった。これは今のEUの状態にそっくりだとも言えなくも無い。むしろ、源流はやはりこのあたりにあるのだろう。
さらに1917年の戦時帝国閣議・会議の段階になると、戦争は長期化の様相を見せ、戦後にドイツ物品が市場を席巻するという恐怖は薄れてきた。逆にドイツの戦後復興と、連合国に行われる賠償を速やかに回収することを思えばドイツ経済復興計画を立てるべきだとまでしている。
では、帝国関税問題について戦時帝国閣議・会議の検討内容を見てい。結論から言ってしまうと、これは船舶運賃補助という形での帝国の結びつきの強化であり、関税以外の方法での助成が望ましいとされた。それは農作物輸出国である、米露との関係を損ねないという意味合いもあったし、自治領の方でも様々な思惑が存在した。ただ、一つ言えるのは英国が目指したのは帝国に対して助成を与えながらも、中立国とも差別無く広い通商関係を維持するというモノであったことを忘れてはならない。
秋富氏は
第一次世界大戦中のイギリス政府はまさに「関税政策」と「開かれた帝国」を総合する、新しい「第三」路線に基づく通商政策構想を計画していたのである。と締めくくる。
結局のところ、この時点での英国の理想は自由貿易の維持と同時に、ドイツへ依存していた有る特定の分野についての産業育成であった。この産業育成が後の通商政策へつながることは明らかであった。
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by foch_ws
| 2011-06-09 04:31
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