2011年 06月 18日
佐村明知「ルイ14世末期フランスの財政・金融危機」 |
今日というか、この前読んだ論文は「ルイ14世末期フランスの財政・金融危機」である。
そもそも、私の専門はフランス金融史ではなくて、英国金融史なのだから読むこともないのだが趣味で読んでしまった。また教授にそうして怒られるわけである。さて、この論文はリヲン金融危機を扱うわけだが、ちょうどその時期に財務総監を務めていたニコラ・デマレ財務総監の政策をこの論文は中心に扱うことになる。
本題はリヲン金融恐慌と通貨政策なのだが、この時期のフランスは今流行のインフレ政策(論文内では通貨膨張効果)がどのような効果を及ぼしたのかという分析になる。
リヲン金融恐慌の始まりはB&N手形の不渡りから始まり、
あれ、どっかで聞いたことあるような(笑)
このブログを読んでいる人(そんな人は居ないだろうが)には説明は不要であろう。何度も繰り返された金融危機の構図の原型がここにはある。
むしろ佐村氏が論じている本論は
ということである。
ここまで来ると、国家債務問題を出発点として、フランスの政治体制そのものの問題へとリンクさせて居ることは明らかだ。これは現状の日本にも当てはまる問題だと個人的には思っている。つまり、バブル崩壊以後、我々は社会保障政策や税制度のあり方根本に疑念を抱かなければならないし、そのうち崩壊して変えなければいけないときが来るだろう。もちろん、前もって対策を打っておいた方がいくぶんかはマシな事になるのは言うまでもない。
さて、ニコラ・デマレ財務総監のリヲン金融恐慌に対する対応はインフレ政策であった。そして、そのインフレ政策は貨幣券の市中からの買い取りを中心として行われ、正価鋳造高を大幅に引き上げ、貨幣流通量を確保しようという試みを行った。
なぜ、経済が回復傾向に向かわなかったのかという事についての佐村氏の分析は1709年の旧型恐慌、つまり大凶作がインフレ効果を相殺したためだと分析する。つまり、食料品の値上がりによって工産品に対する購買力が低下し、需要不足からおこる不況へと引きずり込まれた。
そのような中、追い打ちをかけるように徴税請負契約の不成立の危機に端を発し、後には財政の事実上の破綻にまでフランス財政は追い込まれていくことになる。
しかし、そのような状況の中でも1711年にはフランスの景気は自律的回復を見せ始め、生産活動が上昇し始めた。
ここで行われたインフレ政策によって金融恐慌の面は収まりはじめ経済の自律的回復へとつながったのだ。
しかしながら、このような民間の活力も政府部門にはつながらなかったと佐村氏は書く。
このような中で、デマレ総監は民間の好況にのり政府債務を整理していくことになる。
ユトレヒト和平条約の締結を期に、デマレ総監は平時財政への転換を狙う。まず手始めにラント公債の部分的破産を宣言し、支出圧縮に努めた。しかし、それでは足りるわけもなく、財政は破綻へと歩み始めることになる。
そして、同時に行ったのが正価引き下げ政策であり、それは数度にわたって行われた。しかし、同時にそれは通貨に対する投機を招き、デマレ総監にデフレ政策をとらせることになる。しかし、市場の反応は鈍く小麦価格などにはそれを繁栄されなった。
続く?
そもそも、私の専門はフランス金融史ではなくて、英国金融史なのだから読むこともないのだが趣味で読んでしまった。また教授にそうして怒られるわけである。さて、この論文はリヲン金融危機を扱うわけだが、ちょうどその時期に財務総監を務めていたニコラ・デマレ財務総監の政策をこの論文は中心に扱うことになる。
本題はリヲン金融恐慌と通貨政策なのだが、この時期のフランスは今流行のインフレ政策(論文内では通貨膨張効果)がどのような効果を及ぼしたのかという分析になる。
リヲン金融恐慌の始まりはB&N手形の不渡りから始まり、
その後有力金曜業者の連鎖的な破綻を招き、パリやリヲン、マルセイユ、ジュネーヴという当時の金融ネットワークの中核都市における信用一般をも崩壊に導いた。その結果、リヲン金融市場のもつ地域性を遙かに超えた範囲で貨幣流通が途絶し、租税徴収並びに財政資金調達が閉塞化し、加えて国民経済全般の極度の沈滞という状況が出現した。
あれ、どっかで聞いたことあるような(笑)
このブログを読んでいる人(そんな人は居ないだろうが)には説明は不要であろう。何度も繰り返された金融危機の構図の原型がここにはある。
むしろ佐村氏が論じている本論は
ともかく、戦争財政とそれに伴う国家債務の急激な累増を先行条件としながら、絶対主義国家という政治経済的フレーム・ワークにおけるいわば臨海点を示す象徴的な金融的事件となったリヲン金融恐慌は、それがその後財政・金融両面に及ぶ大きな政策の転換を余儀なくしていくことからすれば、一つの帰結を意味すると同時に新たな起点としての意義を有することが認められよう。
ということである。
ここまで来ると、国家債務問題を出発点として、フランスの政治体制そのものの問題へとリンクさせて居ることは明らかだ。これは現状の日本にも当てはまる問題だと個人的には思っている。つまり、バブル崩壊以後、我々は社会保障政策や税制度のあり方根本に疑念を抱かなければならないし、そのうち崩壊して変えなければいけないときが来るだろう。もちろん、前もって対策を打っておいた方がいくぶんかはマシな事になるのは言うまでもない。
さて、ニコラ・デマレ財務総監のリヲン金融恐慌に対する対応はインフレ政策であった。そして、そのインフレ政策は貨幣券の市中からの買い取りを中心として行われ、正価鋳造高を大幅に引き上げ、貨幣流通量を確保しようという試みを行った。
貨幣券を対象とした買オペレーションによる市中への貨幣の追加供給策に他ならなかった。 中略 だが、ここにおいて注意されなければならないのは、リヲン金融恐慌直後からのそれらの新たな貨幣金融的施策、つまり強力な通貨膨張策の展開にもかかわらず、1709年度後半のフランスにあっては経済活動の回復の徴候が殆ど現れず、しかもその通貨膨張効果が国民経済の実物面に対して実効性を働かせるようになるには少なくとも1711年まで待たねばならないと言うことである。
なぜ、経済が回復傾向に向かわなかったのかという事についての佐村氏の分析は1709年の旧型恐慌、つまり大凶作がインフレ効果を相殺したためだと分析する。つまり、食料品の値上がりによって工産品に対する購買力が低下し、需要不足からおこる不況へと引きずり込まれた。
そのような中、追い打ちをかけるように徴税請負契約の不成立の危機に端を発し、後には財政の事実上の破綻にまでフランス財政は追い込まれていくことになる。
しかし、そのような状況の中でも1711年にはフランスの景気は自律的回復を見せ始め、生産活動が上昇し始めた。
もとより、こうした1711年以後における経済活動の自律的回復を促進した、重要な要因として忘れてはならないのは、かのリヲン金融恐慌直後から展開されてきた「通貨膨張策」の影響である。
ここで行われたインフレ政策によって金融恐慌の面は収まりはじめ経済の自律的回復へとつながったのだ。
しかしながら、このような民間の活力も政府部門にはつながらなかったと佐村氏は書く。
膨大な国家債務残高の累積と莫大な戦時臨時支出からくる重圧の中で、デマレ総監は、極端な構造的赤字不均衡下にあった財政の運営を維持すべく、いっそうの政府金融の展開を余儀なくされている。
このような中で、デマレ総監は民間の好況にのり政府債務を整理していくことになる。
ユトレヒト和平条約の締結を期に、デマレ総監は平時財政への転換を狙う。まず手始めにラント公債の部分的破産を宣言し、支出圧縮に努めた。しかし、それでは足りるわけもなく、財政は破綻へと歩み始めることになる。
そして、同時に行ったのが正価引き下げ政策であり、それは数度にわたって行われた。しかし、同時にそれは通貨に対する投機を招き、デマレ総監にデフレ政策をとらせることになる。しかし、市場の反応は鈍く小麦価格などにはそれを繁栄されなった。
続く?
by foch_ws
| 2011-06-18 00:07
| 読んだ論文